※各種イベントにおいて、内容の変更や中止・延期される可能性がございます。
最新の情報を公式サイト等でご確認の上、お出かけください。
最新の情報を公式サイト等でご確認の上、お出かけください。
古代ロマン 鎌倉街道伝承地の碑
源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、京都と鎌倉の往来が頻繁になったことから、この頃の街道筋を近世の「東海道」と区別して「鎌倉街道」と呼びます。鎌倉街道にはいくつかの特徴がありました。【多少の坂や曲がり道はあるが、大きく見ると基本的に平坦でまっすぐなルートをとる】【見晴らしがいいように、丘陵や台地の上を通る】【幅は騎馬がすれちがえるほどしかなく、広くない】鎌倉街道は鎌倉を中心に放射状に整備され、各地を結んでいました。刈谷市内では「東海道」よりも北を通っていたと推測され、豊田市の駒場の方から東境町と西境町を通り、境川を越えて豊明市の方へ続いていきます。現在は度重なる耕地整理などによって、その姿を見ることはできませんが、東境町にある祖母神社には比較的その面影が残っています。また、東境町には、町屋、奥町屋などの地名も残っています。※鎌倉街道は当時のルートを限定できていません。